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1.癌

​コロナが流行る以前の、自由に誰でも病院にお見舞い・面会に行けた時代のこと。

父が10年前亡くなり、母と二人暮らしになっていた。昭和に出来た狭小住宅街に住んで50年近くだった。

80代前半の高齢の母が胃ガンで入院していて、あと余命四ヶ月ほどを担当医師に告げられていた頃の話で、
すがるようにずっと中島みゆきの“銀の龍の背に乗って”聴いていた。


もうほとんど母は痛み止めしか治療法がない状態まで来ていて、来週末には自宅に戻ってその残りの日々を過ごす予定だった。母もそれを楽しみにしていた。

フリーターの私は時間が作れたので夕方、近くだった病院へほとんど毎日の面会に通っていた。

母のガンについては、本人には見つかってからずっと告知しないことを決めたのは、本人のショックが容易に想像できたからで、もうどう説明していいかわからず主治医と相談して『胃潰瘍のひどいやつ』ということにするのが精いっぱいだった。

胃潰瘍は薬で治せる時代なので、かなり無理はあったが、そう母に誤魔化して押し通すしかなかった。


もちろん近所の人にもそのように伝え、ガンについては言ってなかった。

「秘密にしてほしい」と言ったしても『話したら広がるものと覚悟する』のも面倒だったし、何より母にも話してないことを話すほどの間柄の人もいなかったし。
けれども近所の人達はずい分母が痩せていたから何かしらは気がついて、かなり噂みたいに伝わっていたと思う。そういうのって近所は敏感で、噂として嘘でも本当でも流されるものだし。


ガンとわかって手術した一年前の最初の入院の頃は、近所の何名かはお見舞いに来ていて、

その後、退院してからは、抗がん剤の点滴をしに定期的に一日の入院を繰り返していたが、それをいちいち近所の人にはもちろん報告はしなかった。
 

でも、後から話す近所のA婆々サン(母より一回りほど上の年齢)と言う人は、母と同じ病院に定期的に診察に通い、ときどき待合室で私達に会っている内におかしいと思い始めていたようだった。

​この人も一年前の手術のための母の入院時はお見舞い(面会)に来ていた。


このA婆々サンの、隣の地区に住んでいた独り身の実兄さんもずい分前に私の母と同じガンで亡くなっていたけれど、だからと言ってA婆々サンとは特別な人でもないので教えるつもりはなかった。

 

このA婆々サンの家と私の家は昔からの付き合いで、けれどそう書くとなんだか親密に聞こえるが、たまたま近所、家が近くだからと言うくらいの付き合いのものだった。

そうはっきり書けるのは、A婆々サン家族と、別ページ後述の“Bオバサン家族とは近所同士と言えども、昔には当時お互いの子供達へお年玉を渡し合う時もあったり、今でも顔を見れば必ず長い立ち話したり、Bオバサンが頻繁(1日2回なんてざらで)に大きな声でこのA婆々サンの名前を呼びながら敷地に入って行ったりと、それに比べたらうちの家族との関係は本当にただの『ただ近くに住んでいる、だから喋る』それくらいの関係であった。

婆々サンの顔は年齢通りそこそこだが、直立で杖無しでけっこうな距離(700mくらいを一気に歩く・家の中から普通の主婦のスピード並みに飛び出してくる『詳細は別ページで』等)を普通の人並の速さで歩き、話す内容も老人ぽいものも感じなく、腹から肺から出している声も大きくはっきりとしていて等々、元気な80代いや70代変わらないと言ってもいいほどの、元気過ぎる90代前半の一人。この住宅街だけで収まらない、世間に顔が広いのも特徴である。

年寄り扱いしても意味はない、かえって痛い目に合うのは母も私もよく心得ていた。

言葉で“90代前半の年寄り”と書くと、皆さんの抱くそれぞれ相応のイメージを速攻思い浮かべるのは当然だが、

実際近所付き合いの始まった30年以上前頃から、この人は強く癖のある性格であったようだ(母も癖のある性格だったが、その母が気が付くほどのレベルだった)。と言っても、たいてい人は何かしらの癖はあるものであり。

色々な話をこの婆々さんから母は聞かされていたようで、この人の場合はプライドがかなり高い故の何においても負けず嫌いらしく、それは変わらずただ歳を取って90歳代前半になっただけということであった。

 

60歳代くらいから良い意味でも悪い意味でも全く変わっていないようである

特に母が困り、迷惑だったのは近所のある人について婆々サン自身が親しいくせに、親しいからこそ個人的に色々聞いている、自分しか知り得ない話・情報を平気で漏らしてくることだった。

例えば、A親子と親しい家族の一人の、独断的で身勝手な離婚理由話。それは“夫婦どちらかが別れたがった”とかでなく、離婚は本人同士の意思ではないと言った踏み込んだ内容。

しかもその時ですらその離婚はもう10年以上は過ぎた前の話なのに。

「婆サン、本当はその人が気に入らないのか」とさえ思う。その暴露当時、その人達家族はもう幸せそうだったので妬みの気持ちで引っ張り出して来たのだろうか。

こちらとしたら『そんな話を聞かされても』って感じで。この婆サン、間違いなく他の人達に話しているだろうし。

それはもう本人への悪意としか思えなかった。


そんな流れの中、ついに母は終末医療に入り、最後の入院の時には一般病棟から地域包括ケア病棟(大きくない病院なので、同じ建物の階違い)に移って、一定期間過ごした後、家に戻るはずだった。


その階は、急性期治療後のリハビリ・在宅復帰に向けた医療や支援を行うための場所で、外科的な手術後、家に帰る準備の人たちや痴呆が進んでいる感じの人たちが入院してた。
もちろん近所の人にはそんな2階にいることは誰にも話しているはずなかった。

先程説明したA婆々サンは、定期的に町を廻る巡回バスで、病院(母もお世話になっているところ)にいつも午前の診察に行き、帰りに乗る巡回バスの待ち時間の関係でひまなのか、元気なので診察後の帰りにその病院の3階以上の病室にいる人のところへ勝手に立ち寄っているみたいだった。(『立ち寄っている』と書くと聞こえがいいが…。)


昔ながらの小さい病院なので面会の人に対し、規則はとりあえずあるが、だいぶユルユルなものになっていて、いつでも誰でも病院の中を自由に回れるような状態だった。
それぞれの病室の出入口には、その部屋の入院患者の名前が書いてあるので知っている名前をみたら勝手に入っていって、それで情報を得ているようである。院内を自由に歩けるから当然だろう。
(何人の人がこの人のいわゆる時間つぶし的なことに無理矢理付き合わされたのだろうかと思うと“ゾッ”とする。)
以前から母は、このA婆々サンの強引な面会に「お姉さん(Aの娘70代)はやめとけって言わないのかな。」とよく私に話していたものである。

婆々サンの行動
に関して以前に、母がA婆々サン自身からそのことについて聞いた話がある。
ある時このA婆々サン、院内のうろつきを看護士さんから注意されたらしい。そうされ気を害してまるで自分がひどい対応されたかのように被害者ぶって話していたそうだが、あまりによくうろついているから目につくはずである。

被害者ぶって話しているのを母にはバレていた。
確か面会時間は午後3時くらいからだし、身内でもない人間がその時間外に病棟をうろつくのは論外である。やっぱりバスの運行時間の時間つぶしと思われても仕方ない。

 

この婆サンは、入院している人がなんのため病院に居るのかもわからないみたいで、まるで自分のための“時間つぶし”のために入院していると勘違いしているとさえ思えてくる。

(母の一回目の入院の頃、『お見舞いは遠慮してほしいと伝えたにも関わらず来る近所の人に不快感を抱いている話』をA婆サンにはしていたので、その辺よく理解してくれている人かと思っていたが、自分は特別だと思っていたみたいだ。遠回しに言う表現というものを知らないのだろうか。)
 

この地域包括ケア病棟(階)に移ってから、母もだいぶ病状がひどくなってきて体調もすぐれなく、来るか来ないかわからないこの人にいつ来られてしまうか、すごく嫌がっていた(情報収集と時間つぶし的な意味合いであることを知っていたので)。
相手しないといけないし、相手すると疲れるし、ポータ
ブルトイレがベッドの横に常に置いてあったし、この入院前からだいぶ痩せてしまったし、入れ歯もない状態だし、母にとって色々見られたくない状態だった。
それに来られても、そろそろ帰ってほしい時になかなかそう言えないようだった。

 


ある日、近所のA婆々サンがメロンをうちに持って訪ねてきて、「今日行ったけど(私的には事前に行くと言われたわけでなく、階も違う部屋を教えたわけでないからもちろん『部屋探しを当てた』になるが)、
カーテンが閉められていて、そんな雰囲気じゃないから会わなかった」と、「行かないほうがいいかな?」と言ってきたので、「はい」とうなづいた。


“やっぱり行ったか、この人。でも『自分から行かない』って言うのならそれでいい”、これではっきりしたとほっとした。


病室どころか入院も教えておらず、こちらも行くか行かないかもわからない人に先回りして「遠慮してほしい」「行かないでほしい」と言えるものでもないから、ちょうどいい機会だと正直思った。私が思っていたような、性格に難がある人ではないかもと思い始めていた。
『自分から行かない』と言ってきたのだし。間違いないだろう。
こちらの意志をやっと伝えた気になっていた。

その後その通りに来なくて、面会に来られるのを嫌がっていた母は「きっとお姉さん(A
娘70代)が行くなと止めているのよ。」と言っていた。
母を普段から無視しているあの娘がそんなことを到底言うはずはない人間と
知ってはいたけれど、「そうだね」と頷いておいた。

 

しかしある日、私はその日も夕方、いつものように母の病室に行くと、カーテンがしてありこちらから見えないベッドから、母が看護師さんに
「今日は、息子は疲れているから来ないの」と話す声が向こうから聞こえてきた。多分今日もそろそろ私が来るだろうという話でも看護師さんにされていたのだろう。

看護士さんが私に気がついて、『息子さん来てますよ』って教えてくれた。
それまでそんなことを言わなかった母にどうしてかと聞いてみると、
昼間にA婆々サンが面会に来て、“私が疲れている”と勝手に告げたらしい。

私はぜんぜんA婆々サンに自分がしんどいとか疲れた等話してもないし、それどころかその頃は全く顔を合わせて会ってもいなく勝手に決めつけられる状況すらなかったのに、
なんでそんな病人である母を心配させるようなことを言ったのか。

 

婆々サンが帰った後ずっと『母は私が今日は来ないと思っていたのだろうか』と考えると辛く哀しく、そして非常に腹が立った。
そんなことを言われて、ただでさえ母自身がしんどく、今は病気でベッドにいることしかできない母がどう思うのか、婆々サンは想像もできないのか。

婆々サンの、常日頃や過去からの決して性格が芳しくないように思える言動を知っている母にとって、病室に来てまで婆さんに嘘をつかれたことは、精神的にもかなりキツかったことだろう。


何しにお見舞い(面会)にきたのか、母を悩ませたかったのか、苦しめたかったのか。人として最低の行為でしかない。
翌日には衝撃の発言をしてきたのを後から含めて考えると、相手が病人であることをいいことにわざとやったとしか思えない出来事で、ほんと悔しい。

​私が居ない隙に来たのはそういうことか。

 

後、この日の婆さん、『余計なこと話すな』ってこともしていた。
A婆々サンの実兄さんの話である。
食事が取れないことを母が話すと、A婆々サンの実兄さんが入院していた時は、小さいおにぎりを持っていったら食べたと言われたそうで、
私が以前婆々サンからその話を聞いた時にはそれすら食べられなかったと聞いていたので、「食べれなかったって言ってたよ」って話したら、母が「後出しじゃんけんだね。」って笑っていた。母もこの婆々サンの
負けず嫌いの性格をよく知っていたので、「またか」と納得していたのであろう。

もう少しこの話について詳しく書くと、母の最初の入院の時、私が家の周りで作業をしていたら、A婆々さんがやってきて、こちらから何も聞いてもいないのに隣の地区に住んでいた実兄さんの昔の入院中の話を語りだすように話してきた。
その時語ったのは実兄さんはもう末期の頃の話で、何とか食べてもらおうとピンポン玉くらいの大きさのおにぎりを二個作って持っていったけれど、実兄さんはそれすらも『食べれかった』と悲しそうに語った時があり、とても印象に残っていた。
『それすら』も食べれないとはどういうことか私にもわかり、何も言葉が出なかったので特に覚えている。
その話は婆々サン、前に話したことを忘れたのか強調したかったのか二回もしてきて、私は二回目聞かされた時もまた何も言えなかったので、ほんとよく覚えている。

母はそれまでにだんだん食事がとれなくなってきていたので、私はなんとか食欲が出るようにとご飯のお供となるものを買ってきては、小瓶や小さなパックに詰めて、病室のベッド横の冷蔵庫に上に所狭しとたくさん置いていたのにそれを見てこの婆々サン、何も思わないどころか、「兄は食べれた」等と言っていたと聞いて本当に怒りに震えた。他にも言えることはあるだろうと。
食べれないと言っている病人に何してるのか。

焦らせ、不安になりそうなことを何故こうも平気で言うのか、しかも嘘を言うとは本当に腹わたが煮え返った。

これまで身勝手ながらもこの婆々サン、数多くの面会・見舞いをしてきた経験があるならもっと機転を利かせた会話や病人の立場に立った気持ちでの話も出来ただろうに。

実際今回の母の件でこの婆々サンの面会という行動はただの自分の為の自己満足のためなのがよくわかった。

そうそれは、婆々サンのお兄さんが『食べれた』『食べれなかった』の問題といった話で全然なく、婆々サンの性格の良し悪し・品性の問題だったのだ。

それにしても病室へ何しに行っているのかと何度も思う。


他にも、母が病名を尋ねられ、自分の病気のことが“わからない”と言ったところ、全く頼みもしないのに『聞いてきてあげる』と看護士さんのところにも行ったと呆れながら力のない笑顔で母は話してくれた。(つかまらなかったそうで。本当はきっと相手にされなかったと思う。それよりまず、いつも病院を時間潰しでうろついている婆サンなのだから信用はないだろう。

母は前述の通り、この人のこの身勝手面会についてははっきり嫌がっていたので、知っていても教える気は更々なかった。

これまでずっと婆サンが勝手に誰かの病室に押しかけて、見聞きしたことを自分のお気に入りの知人=他人にベラベラと話している姿と無神経な性格を知っているから、母はそんな人には大事なことは決して何も教えはしないのだ。どんなことにおいても。

​この婆サンにさっさと帰って欲しかっただけだ。

婆々サンは『本人が知らない』と自分の口から言ったのをいいことに、『母が知りたがっている』と言うことにして、看護士からはっきりした病名を訊き出せるチャンスとでも思ったのだろうか。書き方は悪いが何の収穫もないまま帰らずに済むし。

この行動、この人の親切心みたいに聞こえるが、親族でもないどころか、赤の他人が聴きにいくようなものじゃないし、常識的にただの近所の人間がしようと考えることではない。『これ以上は踏み入る事ではない』と身内の私に聞くように言うものだろう。

それ以上にこの婆々サン自身、そもそも母とはそんな仲でないことくらい、母もこの婆々サンも十分わかっている。

普通の神経ではない信じられない異常な行動だった

近所の人には話のネタとしても「知りたがっていたから私が代わりに聞いてあげようとしたんだよ」とか親切ごかしのことを言うのだろう。

そして私にはまさか「聞いてきてあげたよ」と病名を教える気だったのか。

それらは全てはずっと母が言っていたこの人の強い癖ある行動に当てはまりそうな行為であった。

あの時母が見せた苦笑は、母もこの婆々サンの魂胆を見抜いていてのことだった。

こんなにもしつこく長い間、この婆々さんの自分の情報収集と自己満足のため(後述詳細の仲間のBオバサンのため)、無理やり勝手に病室に居続けて、病人の母を付き合わせていたとは本当にあり得ない。

​もともと『面会には行かない』と自分で言ったくせに行った時点で、この婆々サンの行動はすでに異常な状態あり、その後の行動も異常なものをとるのは目に見えていたのだった。この婆々サンのやりたい放題になることは。

この日、なんとか平常心をなるべく保ちながら私は母の傍にいた。

翌日の夕方、この日も変わらず病院に車で出かけようとしたら、家に居たA婆サンが気配を感じたのかすーっと家から出てきて、昨日見て来たことを話し始めた。

 

私的には『行かない』と言ったのにA婆サンが来たことや、言ってもいない『私が疲れている』と言ったこと、等の他、
A婆サンは娘がきっと行くなと言っていて、『来ない』と信じていた母の気持ちを考えると、私はすでにかなり頭に来ていて、ほんとは怒鳴りながら不満と怒りをぶちまけたかったが、
近い日、家に帰ってくる母のためにも言いたいことは控え、冷静に振る舞い続けた。


母の、あのベッドに横になりながら『あの人にはうんざり』とばかりしんどそうに手の甲を額にあてて“もう来ないでほしい”と語っていた姿を思い出し、もう来てほしくない意味を込めて「熱が出たんで」と告げ、「お見舞いは控えてください」と伝えた。
一応向こうは“ごめん”とは言ったもののまたこの人の​負けず嫌いの減らず口が始まったようで、


私が車に乗ると車の横まで歩いてきて、何度も窓を叩いてきた。本当はもうそれ以上関わりたくもないので、そのまま走らせようと思ったが、
それも失礼なのでとりあえず窓開けたらA婆々
サンが勝手に話し出した。


すると「これから母さんのところに行くのかい?」と聞いて私の行動をちゃんと確認した後、一人勝手に、
(母の)「声が小さくなった」(これは確かだが)
「もう長くないな」
「母さんが家に帰りたいと言ってたけどあれでは無理じゃないか!」
など耳を疑うことを言い出した。

(こう書くと、悪いところだけ抜粋しているのではないかと思われるだろうが、この他に母や私を気遣ったり、『励ましの言葉』みたいなの話は一切なく、いきなり車の窓を開けた途端にその場で“死”を意識させられ、突きつけてくるこれらの言葉だけだったので怒りと共に鮮烈に覚えている。)

 

“こいつ、わざわざこんなことを言うために”。もう相手にもしたくないから私は窓を開けてからずっと、A婆サンが話している間はじっと何も言葉を発しないままでいた。

すると自分のしたいをして気が済んだのか相手が黙ったところで車を出した。もうまともに関われる人ではない、異常そのものとわかったので。


“勝手に来て、やりたい放題のお前が言うことじゃない。”…怒りで頭がいっぱいだった。

心無い言葉に苛立ちを募らせたが、なんとか必死に隠して母のところで過ごしたが、この日の大切で貴重な夕方の時間を奪われました。

私や母にとって、一生懸命だということがあの人には何もわからないのだろう。

…なんとか元気になってもらいたい。
…少しでも前日よりできることがあったり、少しでも元気だったらとてもうれしかった。
死のことは意識しつつも、毛頭も考えたくなかった日々だったのに。


この人の言動は、明らかに異常で悪意でしかない。母に会うのをわざわざ確認しておきながら、これから車を運転して出掛け会いに行く人間に対して気持ちをひっき回すことを言い放つなんて普通ではない。
この婆々サン、こんなことをこの歳までずっと他の人にしてきたり、または私達だけにしてきたり思うとほんと今でも思い起こせば許せない気持ちでいっぱいになる。


あの怒りの日から三日後、母は遺体となり家に帰ってきた翌日、色々な準備をしに出掛けるため、家から出て来る姉を家の前で車を止めて待っていたら、視線をとても感じるのである。

私を見つけるのでなく、その隣りの助手席に誰が乗っているのか覗こうとしている顔がA宅の道路に面した一階の掃き出し窓から丸見え。晩夏という季節的に網戸で、しっかり向うが確認できるかのようにカーテンを開けて見ているのでこちらからも丸見え、それはA婆々サンの娘(70代)だった。

A婆々サン宅の物置がその手前に置いているものだから、見にくさが邪魔して返って、A娘の左右に激しく不自然な動きをする顔が余計に目立ってこちらからよく見える。
はっきり見ようとカーテンを開いたり、バレないよう見つからないようにとまたサーッと閉めたりと、でもこちらがA宅の窓の方を見ているのもA娘サンも気が付いているはず。

そのうち車がA婆々サン宅の前を通る時 、面倒くさくなったのかカーテンを後ろ手に閉めて、うしろ姿をみせて誤魔化していた。


「…顔全部見えていたんですけど」、「カーテンしなかったら見えるんですけど」、「カーテンの開け閉め自体もかなり目立つんですけど」ってくどく言ってやりたい気分だった。
実際カーテン越しでも十分見えるでしょて感じの、すぐ近くなんだからと。
見ている姿は見えてもいいのに下手に隠れるというのが色んな点おいてレベルが低すぎで呆れる。全くガキの動きだった。

というか「嫌がらせですか?」って大きな声で言ってやりたい気持ちだった。

うっとうしかった、ほんとうにうっとしかった。
この娘、母のことを生前から無視していたくせに。

母が亡くなったかを必死に確認してくる姿を目の当たりにして、あるのは怒りのみ。(婆サンの言った通り、まぁ死んだが)
あの母親の言動にこの娘の行動。母に死んで欲しかったのか。

窓辺で待ち受けていたのは確かだった。

網戸越しにあったあの顔、今でも見る度腹が立つ。

 

私の母の人生が終わってまでも、こんな嫌な気持ちにさせられたまま過ぎて行った。

母の家族葬(身内だけの通夜・告別式)を終えて、翌日、近所の方達が家に訪ねてこられてきたので、上ってもらおうとしたら、

その様子を聞きつけたのかA婆々サンも後を追うようにやってきてどさくさに一緒になって入ってこようとしてきたので断った。

もし家に上ってもらって、あの日見てきたことを何もかもわかったような口をきくものなら、きっと他の方たちの前で大声で出していたかもしれないので、断って正解だった。そうならなくて他の方たちのためにも本当よかったと今でも思う。


もちろんその後一人で来なかったし、近所のA婆々サンと仲のいいBオバサン(この人には関係ないので家族だけで家で行った四十九日法要後には家に上ってもらった)とも一緒に来なかった。
その後は少しの間、挨拶(会釈)もとりあえずしていたし、A婆々サン、声をかけてもきた。


でも何も謝罪はなかったので、弔問を断られた事で帳消しになったと思っているのか、

病人に対してあれだけのことをしていて、まさか何も悪い事をしたつもりもないと言い張る気(それなら正直、無責任にほったらかしでこんな婆々サンを自由に外へ歩かせたらいけないって思う)かはわからない。

それとも話した通りに死んだから何も問題はない、むしろ教えてやったくらいの気持ちなのだろうか。


ただそのうち、私はこのA婆々サン親子に挨拶しなくなった。というかこちらがしたら向こうが声も出さずに『うなづきのみ』で返すタイプの挨拶だったので、こちらがしなければ自然と挨拶はなくなるのは自然の成り行きであった。

その間、A婆々サン、自分の立場と体裁を守るためか話を自分寄り・自分中心にして、『大変な時に面会に行ったから(私が怒っていて、弔問を断られた)』と近所に話していたようであった。

近所(弔問を断った理由を書いた手紙を渡した人(後述のBオバサンではない)から本人がそう言ってたことを聞いたので間違いない。

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