更に諸々の話
更に書きたいことをここに
ただの傍迷惑、大きな声
※『ですます調』はべったりとした説明口調になりがちなので、ここのページでも『である調』で進めていくことにする。
本編『はじめに』のページの怒りにも繋がっていった話である。
似たような話でもあるけれど。
Bオバサンとのあの二年目の出来事以降の話である。
普段から私の家の中にも聞こえてくるBオバサンが道端で誰かと話す、とりわけ陽気で元気な喋り声。
時折、一瞬で声を潜めてヒソヒソ声に変え、また戻れるならそれを常時、周囲への心配りに使えはしないだろうかとも思う。(もちろんこの人は耳が遠くて声が大きくなりがちでも、元々大きい声でもない。)
そんな時は周囲の近所に安易に聞かれてはヤバい話をしているのだろうか。
そんなある日(正確には母が亡くなって3年目の夏を迎える時期)、この人が大きな声をかなり意図的に使っていることをはっきり自分的に気づいた日がやって来た。
Bオバサンが孫と自分の家の前ではしゃぎながら遊んでいることがあった。
玄関前に置いてあるたくさんプランターの植物に水を上げたついでにオバサンの家前の道路で遊び始めるようだ。
楽しそうな声はこちらの家の中まで聞こえてくる。まぁ、狭小住宅地なので当然だが。
BオバサンがA親子とならともかく、賑やかに孫と遊ぎ、騒ぐ声まで目くじらを立てたりするほど、気持ちの余裕がない訳でもない私は苛立ちはしなかった。
“おばあちゃんと孫が遊ぶ様子。
孫にとってもおばあちゃんと楽しい時間。今しかない貴重な時間”
そう多少、無理矢理にも綺麗に思えるので意外にも冷静でいた。
その日もまた孫と負けじ劣らず大きな声ではしゃぐBオバサンに「一体何をしてそこまでそこまで盛り上がっているだろう?」と好奇心そそられ、窓の外を覗いてみると、(公道なので何もおかしくはない。)そこには想像通りに上機嫌なBオバサンと孫が普通に楽しく遊んでいた。
それまでも出掛ける時や帰宅時には通り過ぎながらその風景はよく見かけていたものの、こういった風に窓からまじまじと見るのは初めてである。
『孫と遊んでいる光景は微笑ましいはずのもの』と見ていると、
なんとその内Bオバサンが、A親子宅の道路に面した掃き出し窓の方を何度も何度もチラチラ、チラチラ見ていることに気が付いた。
どうしてA親子の家を意識してんの?
孫と夢中で遊んでないの?
その理由はすぐに分かった。
大きな声を出せば、その様子を聞きつけて窓を開けて顔出してくれる、あるいは外に出てきてくれる、それをBオバサンは狙っていたのだ。
出て来たら、孫とを遊んでくれるし、可愛がってくれるしで。
孫がいれば特に用がなくても話題がなくても、自分の孫の話を中心に進むし。
騒ぎ声はA親子を誘い出す呼び水に使っていたのであった。
それまでもよく三人あるいは四人で、しょっちゅう道路で騒いでいる姿を見かけていたものだ。
道理で大きい声を出さなければいけないはずである。
道理で私の家の中までこの人の声が聞こえるのは当たり前のはずである。
呆れた。
本当にあきれた。
普通に孫と遊んでいてテンションが上がっていたものとばかり思っていたのに。
きっとBオバサンは賢く日本神話の『天岩戸』のシーンをまねたつもりなのだろう。
そして呆れ果てて思考停止、見るのをやめた。
その後、出て来たか知らない。興味なし。
しかし別の日にはしっかり四人ではしゃいで遊んでいたので、あのやり方は大抵A親子をうまく呼び出せることができるのだろう。
そんな楽しい時間に見えるような、種明かしのような場面を見てしまうと、その以降の、孫やA親子の居ない他の状況でこの人が誰かと話して大きな声を出しているのをみても、その『声の大きさ』の裏にこの人の何かの意図や思惑みたいなのがあるようにしか思えなくなっていった。
それまでの私に対しての、この人の小声での話し掛けとそうでない時の使い分けのやり口もこんなことと関係しているのだろうとも思った。
それにしても自分でもはっきりと思うのだが、あの『言ってもいいんかなぁあ、言ってもいいんかなぁあ』の件がなければ上記の場面もきっと、「Bオバサン、孫と楽しんでいる所を見てもらいたいんだな」くらいにしか思わなかったのだろうと。
こんなBオバサンとA親子の日常である。